【コラム】 オーストラリアに米を植えた日本人

【コラム】 オーストラリアに米を植えた日本人

オーストラリアに米を植えた日本人

そもそも米の需要がほぼなかったオーストラリアでいったいどのようにして米の栽培が始まったのか、調べていくと1人の日人が浮かび上がります。

その名は愛媛県出身の高須賀穣。

1865年、四国松山藩の料理長、高須賀賀平の1人息子として生まれた高須賀穣は元来より海外志向が強くアメリカへ渡り学問に励むなどといった活動を経て、98年に衆議院議員に当選。国政の場に4年間携わった後、1905年に妻と2人の子どもとともに渡豪を果たしました。

米の栽培に情熱をかけ来豪

当時40歳になった高須賀がオーストラリアの地に足を踏み入れた理由は人生の後半を新天地での挑戦に使いたいという熱い情熱からだったといいます。
来豪後、オーストラリアに米を作ることができる土壌があることに気付き、当時のVIC州のトーマス・ベント首相と国土省の大臣に建議をし、それが功を奏し、1906年7月、州政府はマレー川沿いの300エーカー(120ヘクタール)の土地を米作りのために提供しました。
同年10月、高須賀は日本から持ってきた米の種をオーストラリアの大地にまいたのです。
しかし、芽が動物に食われる、水不足になるなどたび重なる失敗の末、1909年には大洪水に見舞われ、種まきした40エーカーの水田が流されるなど一筋縄ではいきませんでした。

ついに米の収穫に成功

ついに日の目を見たのは実に5年後の1911年。日本から輸入した25種類の籾をまき、3種の米の収穫に成功したのです。
高須賀は、米栽培が軌道に乗ったのを見届けると69歳で引退。経営を2人の息子に任せたといいます。
そして1939年、日本に帰国しその1年後故郷の松山の家で心臓麻痺で急逝しました。
今日、オーストリアの米はジャポニカ種が8割以上を占めるといいます。
その基盤は20世紀初頭の高須賀のチャレンジによって作られました。

我々がオーストラリアで食べているサンライスの短粒米も、もとを正せばこの1人の熱き日本人の手によってまかれたものだと考えると感慨深いものがあります。